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2007年8月 5日 (日)

晴れの日

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こんな夢をみた。

ようやく恵まれた生まれたばかりのわが子を抱いていた。一瞬目を離し、気がつくと赤ん坊がいない。あわてて探すと流し台の下や押入れの中といった信じられない場所にいる。湿気やら埃やら、不浄なその場所にいる赤ん坊を慌てて抱き寄せ、乳を含ませる。おなかがいっぱいになって幸せそうに笑む子を寝かしつけて一安心すると、また一瞬の隙に不浄の場所に移動している。慌ててまた抱き寄せ乳を含ませる。あっという間に移動してしまうわが子を不思議に思うよりも、手元の子どもの暖かさと、生まれてくれたことへの喜びにいっぱいに包まれていた。

そんな夢だった。

さて。
今回のウェブマスターの「裏方日記」を読んで、葬儀屋だの木端微塵だの、花嫁がハダシで逃げ出すような話ばかりで驚きました。でも、ご心配されませんよう。あの話の中にでてくるものは、実は無意識の中に根付いているだけで、花嫁の本来の姿であること、誰の中にもあるものであることを、今日はお話しようと思います。

ウェブマスターの言葉に、「ハレ」(非日常)、そしてその反対の意にあたる「ケ」(日常)というのがありました。聞きなれない学術用語のようなこの言葉も、実は身近な日本人の生活に密着したものです。意識を通り越すほど身近になったために、すぐそばにあることに気がつかれないかたもおられるはず。「晴れ」の日、と書くのも喜ばしい言葉が、「ハレ」。つまり非日常の状態を表すことばです。その反対の「ケ」は日常。では、「ケ」はどんなところで使われているのでしょうか。もっとも身近なことばでは「ケガレ」となるでしょう。
ケガレ・・・穢れ?それと「日常」がどういう関係があるの?と不思議に思われるかもしれません。言葉を分けて考えると「ケ」と「ガレ」となります。日常(ケ)が「枯れる」。それがケガレなのです。

女性は月経やお産、結婚というもののなかで、非日常を生きる瞬間は必ずあります。
生命を生み出すという能力を有する女性は、その神秘性のため太古から畏敬をもたれる存在でした。月に一度は血を流す、という営みもまたを自然とのつながりの中で特別なものに映ったことでしょう。そうした女性の自然への畏敬は、例えば相撲の土俵や料理屋の板場、信仰を集めている山などには女性が触れることができない、という形でも現れました。それぞれの場所にいる神様の怒りを買いかねない、というというのです。なぜ、と聞くと「女性は穢れているから」とさらに現代女性の癇に障る言葉が返ってきたりします。
しかしこの言葉も、もともとは少々ニュアンスが違っていて、特別な能力のあるものが神に近づくことで何がおこるかわからない。女性の特別な力が神々を怒らせるかもしれない。女性は「畏れ」られていたのです。

例えばこの写真。
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赤い傘に入った花嫁はいかにも艶やかで美しく、憧れの存在です。
この赤い傘は花嫁と太陽を遮断するものです。昔は「おてんとうさんに悪い」と表現していました。つまりこの傘もまた、太陽を花嫁から守るものでした。なぜなら花嫁はまさしく生死の境界を行き来する、特別な存在だからなのです。

例えば、以前「守りの力」の中で。
白無垢は死に装束であると書かせていただきました。白無垢を着て女性は娘としての死を迎えるのだ、ということ。懐剣もまた亡くなった方の儀式の時と同様、胸の上にあります。これは「清め」の懐剣です。生死の間にいる非日常の存在、「ケガレ」た存在に対して清めの力が働いているのです。

結婚式に出席した時。人が亡くなったとき。 同じように親族が集まり、会食をする、そして酒を酌み交わすのは。
生と死といった不安定な時間を潜り抜けて、それからの人生を生きていくための、大切なエネルギーの転換の時間でもあるのです。

さて、冒頭の夢に戻ると・・・。
夢では、どこか違う世界からやってきた赤ん坊が、不浄の場所、異界とつながっているのではないかと思うような押入れや流し台の下に瞬間移動しています。そのことを不思議と感じるより、手元に戻り生命の源となる乳をたくさん飲んですやすやとこの手の中で眠ってくれる、そのことのほうが比べようもない喜びに感じられました。
生まれて、そしてこの世に定着してくれるまでは七年かかる、と昔の人が考えていたように(「守りの力」)。生命の揺らぎは自然と思われ、それ以上に生きていてくれる喜びを心から感じる、という夢だったような気がします。

子どもの成長がそうして大切に見守られてきたように。

これから晴れの日を迎える花嫁たちが、この波を無事に通過していきますよう。
昔からそう願われていたように、私もまた祈っています。

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